2012年11月1日

知覧・特攻隊の残像(1)

 

 鹿児島県の南部、薩摩半島に知覧という町がある。今なお武家屋敷が並び、薩摩の小京都と呼ばれる美しい町だ。しかしこの町には、戦争にまつわる悲しい記憶がある。

 知覧には太平洋戦争中、陸軍航空隊の基地があった。1945年(昭和20年)に入り戦局が悪化すると、陸軍航空隊が特別攻撃隊を編成し、沖縄周辺に終結した米軍の艦船に対して戦闘機による自爆攻撃を開始した。

 知覧基地からは、439人のパイロットが出撃したほか、九州や台湾の基地から合計1036人が敵艦への突入を敢行し、戦死した。その大半が、「少年飛行兵」と呼ばれる20歳前後の若者たちだった。

 知覧には、特攻平和会館と呼ばれる資料館がある。ここには、パイロットたちが出撃の前夜に肉親に宛てた最後の手紙や、遺品が展示されている。知覧は鹿児島市から30キロメートル。山道を1時間ほど走らなければならず、交通の便が悪い場所であるにもかかわらず、資料館は満員だった。

 これらの手紙は、涙なしには読めない。多くの若者たちは、両親に宛てた手紙で親孝行できなかったことを詫び、翌日敵艦に突入することを記している。両親に対し、「私が死んでも泣かないで、よくやったと褒めてほしい」と語る少年。「お父さんは、君たちともはや遊んであげることはできないが、死んでも君たちを見守っている。立派な日本人になってほしい」と幼い子どもに片仮名で手紙を書いた父親。「天皇陛下万歳」と記されている手紙もあるが、ほとんどの手紙の行間からは、母親への思慕の情がにじみ出ている。参観者たちは、くいいるようにガラスケースの中の手紙を読んでいる。

 1945年5月25日に、子犬を抱く5人の特攻隊員を撮影した写真がある。彼らの内3人が17歳、2人が18歳という若さだった。彼らは出撃前であるにもかかわらず、子犬を見て顔をほころばせている。この写真の中で微笑んでいる若者全員が、沖縄周辺の海域で戦死した。(続く)

(文と絵・ミュンヘン在住 熊谷 徹)筆者ホームページ: http://www.tkumagai.de